些末な寫眞感

仕事の写真はノンクリエイティブ

自分の思いは押し殺して変幻自在で

"写真が好きだというフォトグラファーは恵まれていると思うし、とても強いメンタルを持っていると思う"

 
私は写真が嫌いだ、手間だし、満足を頂けることは稀だし、いつも妥協が優先して不満が残るばかり。
残念なことに好きな写真を撮らせてもらったことはほぼない。自分の思いを写真に込めて否定されたときには立ち直れないし、できるだけ心が折れないように80%で仕事をしている。
ただし、妥協せずクライアントの思いを完成させることに心血を注ぐ。自分を殺すから自分の意見は入れない。クライアントとの意見の不一致ほど悲劇的なものはない。きっと残る20%が自分の感性であり、そこを抜くから100%にはたどり着けないのだと思う。
そもそも商品撮影なんて撮る時間の数倍、商品の梱包を解いたり、磨いたり、シワをとったりと面倒なもの。カメラだって、レンズだって味なんて不要で好みとか、雰囲気など無縁。写真が面白いはずがない。


作品を撮る

30年、35年分リハビリをします

"悲しいほど自分の感性は奥に奥にしまい込まれています"

 
私は悲しいほどに人間嫌いです。だから話をすることも、他人の生き方にふれるような深い内容の会話も苦手です。
だから内面から湧き出すような感覚を捉えるなんてできるはずがないのです。四角いものを四角く撮る、丸いものを丸く撮るしか経験がないのかもしれません。
ライフィングは、フレーミングは、セオリーは経験分の技術があります。きっと活かすことはできます。だから表面的には撮れるのでしょう。しかし、これでは意味がありません。だって私の感覚、感性はどこにもないのですから。
あまりに失礼な考えかも知れません。目指しているのはニューヨーク近代美術館に自分の作品が収蔵され、次の世代に残すことです。笑えるほど無謀な望み。ただね、望みは口に出さないと実現しないと思うのであえて書き残すのです。


作品展が観たい

人と話をするのが苦手は行動を制限します

"ぽつんと一人で鑑賞したいのです"

 
写真展、東京だろうが、大阪だろうが行きたいのです。ただし、一人でじっくり鑑賞していたい。なんだか人と話をすると写真よりも話に取られるエネルギーが大きすぎて入り込めないのです。
撮影者が撮ったときの事を語るとかもだめなのです。それだけで作品がどんどんと薄くなっていくような錯覚に陥るのです。言葉と映像は反対にいます。言葉で説明をされると気持ちが離れていくのです。